楽ではない花魁への道
雄琴は元々遊郭があったわけではありません。大津市やその他の地域に赤線跡や遊郭の名残が見られるものの、温泉街自体が昭和初期にできたものなので歴史はあまりないのです。近郊では京都に新選組も通ったとされる島原遊郭がありました。
なぜソープ街とは関係のない遊郭の話を始めたかと言うと、「花魁」のいろはについて先日耳に挟んだのでその話をしてみようかなと思いまして。
時代劇では遊郭の場面が度々でてきますが、ここにいる遊女達にも位の差がありました。江戸時代の京や大阪の遊郭では、最高の位の遊女を「太夫」と呼んでいましたが、その下には格子・散茶・座敷持ち・呼び出しなどと呼ばれる遊女達がいました。この遊女たちを総じて「花魁」と呼んだのですが、江戸の吉原では太夫のことを花魁と呼んでいました。
安達祐実が花宵道中という花魁の映画をやっていますが、まさにあんな感じの世界です。
この花魁と床を共にするのには様々なしきたりがあり、最低でも3回は通わなければなりません。しかも財力があることを示す為に、かなりのお金を使う必要があったようです。とても庶民が相手にできる遊女ではありません。
では、花魁には遊女なら誰でもなれたのでしょうか。
花魁になるには、子供の頃から「禿(かむろ)」として先輩花魁につき、小間使いとして働きながら教育を受けなければなりません。豪商と言われる商人や位の高い武士を相手にするのですから、花魁としての美貌もさることながら、教養もみがき、芸事や書等もきちんと出来なければなれなかったのです。
禿を経てさらにその上の新造になり、さらに精進してもなお花魁になれるのは、ほんの一握りの者だけです。花魁というのは遊郭の中の超エリートだったのですね。
そのように切磋琢磨しても花魁になれなかった場合はどうなるのでしょうか。
18歳になっても独り立ちが出来ない新造を留袖新造といい、先輩の世話になりながらお客をとります。さらにその後も身請けされない場合は番頭新造と呼ばれ、豊かな経験を活かして花魁の身の周りの世話をやいたり、引き立て役や相談役になってあげます。遊女の世界もつくづく大変なものだったのです。
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